centropygeflavissima's blog

ラインブログ閉鎖につき移転先の1つ  三重県の真ん中辺りで活動中。身近な訪問先や四季の風物を撮影し発信します

古里散策シリーズ 津市 藤堂藩分家 城下町久居 子午(とき)の鐘・木槿(むくげ)塚と一本松跡の碑 2019年8月

tubeに動画を上げました。
 平成の大合併以前、久居は独立した市でした。通常久居の市街は国道165号からのアクセスとなりますが今日は江戸時代からある旧道を通って行きます。
 城下と書きましたが久居城というものはありません。藤堂藩は津と伊賀上野に既に城を持っていて、分家しても新たな城の建設を幕府に禁じられておりました。よって城の替わりに平屋の「久居陣屋」を建てて殿様は住まわれておりました。
00:00 旧道は今の時代ではかなり狭い。対向、交差に注意。
01:12 この交差点を右に行くと「久居陣屋」であった遺構。今は記念公園、「久居中学校」、市民球場等に代わっています。今日はスルー
01:30 城下町らしい細い路地が交差する街なみ。
03:17 スーパー「ぎゅーとら」の駐車場に停める。買い物+周辺散策。予定として子午(とき)の鐘と一本松跡の碑を入れていますがどちらも旧市街の中で近くに駐車場など無いので歩いて行きます。
05:30 前日8月15日にこの地方を台風が通過し、一転今日は強い日差しと強めの吹返しという天気。暑い!
06:10 路地の交差がややこしく、ナビを見ながら進む。
08:13 右手、大きなお寺状の建物は「天理教分教会」
11:53 それらしき入口に到着。その更に奥に入るので案内柱が無ければ解らなかった。
14:00 「子午(とき)の鐘」江戸時代、久居の街に時を告げていた鐘。現在は突かれていませんが6月の「時の記念日」、大晦日の除夜の鐘、そして終戦の日に鎮魂の鐘つき会(ここをはじめとする市内数十ヶ所の鐘楼にて)が行われます。昨日がその予定でしたが台風が最接近していた頃合いで激しい雨でしたので中止でした。台風の影響は周辺の町の盆踊りや花火大会の延期などにも出ました。
14:23 「木槿(むくげ)塚」芭蕉さんがこの地を訪れて一句残しました。「道端の木槿は馬に喰われけり」
16:30 突かないけれど近くで鐘を見る。
22:50 「一本松跡の碑」に向かう。
27:30 「一本松跡の碑」到着。子供の頃にはまだ一本松が立っていた記憶がうっすらあります。碑石自体は新しい。
 この一本松についてのいわく…
「2004(平成16)年2月、久居のシンボルとして親しまれていた一本松が伐採された。3年前の01年11月、国道165号線を東に向かって走っていたトラックが一本松に衝突した。根が持ち上がるほどの衝撃で、応急手当はしたものの、以後、樹勢が急速に衰え、とうとう松を切ることになった。しかし、引受け手がいない。「久居藩時代からの松で、切ったりすると祟りがある」という言い伝えが残っていたからだ。筆者も子どもの頃、「近くに藩の処刑場があって罪人の首をこの松の枝に曝したことから怨霊が乗り移っている」とか聞かされたことがある。やっとのことで市内の業者に依頼して伐採した。そのときの様子が新聞各社によって「樹齢400年の一本松伐採」などと写真入で大きく報道された。しかし、実際に年輪を観察すると100年程度のもので、明治の後半に植えられたことになるが、いつの間にか「樹齢400年、怨念の松」になってしまっていた。久居藩時代の一本松に関する史料は見られない。風評が一人歩きした結果である。」(http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/rekishi/kenshi/asp/hakken2/detail.asp?record=395から引用) つまり怪談ネタのように噂が立ったこともありますが実際には何度も代替わりした割と新しい木で、切ってはいけないというほどのものでもなかったのです。ですがどこの土建屋さんでもそういう霊感話にはとても敏感で、切るのを嫌がったり、払い屋さんに拝んで貰ったり、六曜で日にちを決めたりと色々あるのです。私が寺社巡りをちょくちょくするようになったのもそうした方々と交流して影響を受けたということもあります。
27:40 改めて見るに、こんな狭い道端だったのかと驚愕。ダンプが衝突するのも無理無いです。
32:50 反転して帰途につく。
42:10 どこかで間違えて行きと違う道だけど駐車場に辿り着く。左手は小学校。
42:50 来た道を戻っていく。台風の名残りでまた降り出しそう。